わたしは兄弟が多かったので、親は子ども達に対して、出来るだけ平等に接しようと頑張っていたのは子どもながらに分かっていました
誰か1人を我慢させたら、みんなも我慢する
誰か1人に何かを与えたら、みんなにも与える
など…
かつて妹が鬱で一時的に実家に帰っていました
父も母も
「無理しないで帰っておいで」「仕事なんかテキトウでいいんだ、頑張らなくていい」
と言ってくれたと、いつも送り迎えしてくれるんだと言っていました
その話を聞いた時、わたしの時とは真逆の対応すぎて、親の対応にびっくりしたのですが、それで良かったと思えたのです
わたしは送迎なんてされたこともないし、鬱状態になって、上司に「実家帰って病院行きなさい」と言われた時も「帰ってこないでなんとか1人で頑張りなさい」と言われました
それに絶望して余計に死にたくなったのですが、今では考えられないほど、当時はしっかり者として育ってきたので親は厳しかったです
当時と比べて父と母は少し変わったのだと、
妹にわたしと同じ対応をしなかったことに安堵しました
「これが長女の宿命なのか…?」とほんの少し考えちゃったけど、そんなことどうでもいいんです
これでもし同じ対応をして妹がより病んでしまったから、わたしは黙っていられないでしょう
そもそも人間は平等じゃないんです
「あの人はこうなのにわたし(僕)は…」っていうのはそもそもの前提が違うのです
「なんでわたしばかり厳しいんだろう?」
「他のきょうだいにももっと言ってよ!」
って日常的に思っていましたが、他の子たちが厳しくされたところで、自分が幸せになれるわけがないのです
仮に他の子にも平等に厳しくしたのを見て、満足したとしても、それは一時的な錯覚の賜物で誰も幸せになっていないから、実は何も満たされないんです
平等ってそんなに大事なんでしょうか
平等で感じられる幸せってなんでしょうか
”人類はみな平等”という前提が劣等感や嫉妬などのネガティブな感情を生むのです
みんな平等が美しいものだと思いたがりますが、本当のところ平等なのは時間と死ぬことくらいだってわかっているはずです
あとは権利とかかな?
昔は、エコひいきによく憧れていました
自分だけを見てほしいって
特別扱いをされたいって
でも自分だけ見られたところで、心から幸せなのかは微妙だと思います
人は本当に満たされたら、人に与えたくなるように出来ていると思うので、そういうのは一過性にすぎないと思います
不平等と捉えるのではなく、それを違いだと認識できる人が増えると幸せを感じるチカラが増すし、不幸な人が減るでしょう
今のその苦しみ、人類はみな平等だからと思っているからではないですか?
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